風のように歌が流れていた

 

 

 傍らに座る岬が低く口ずさむメロディに若林は静かに聞き入った。どこか切なく優しげな曲調のそれは、確か遠い昔の幼い頃に一世を風靡した歌手の歌で、子供の頃からサッカー一筋だった若林にも何となく耳に馴染みがあった。
 岬が歌を歌っているのを、そういえば聞いたことがなかったなと、ふと思い当たる。一箇所一時に留まらないような印象のある彼が、いわゆる流行歌を歌っているのは妙にそぐわないような気もし、けれどもこうして耳を傾けてみれば、本来よりも少しローテンポで紡がれる懐かしいそのメロディは、遠くを眺めやる岬の瞳の色にやけにしっくりくるような気もした。
 歌声の邪魔をしないようそっと草の上に寝そべり、瞼を閉じる。視界が消えるのと入れ違いに、耳からの刺激がより鮮明に意識された。
 港を見下ろすなだらかなこの小丘は、地元の人間にとってはちょっとした散歩コースになっている。休日には子供連れやカップルの憩う姿がそこかしこに見られるのだが、平日の昼間ともなればさすがに人影もまばらだ。聞こえるのはただ、耳元をくすぐる草のざわめきと周囲の木立の僅かな葉ずれ、そして飛び立つ鳥たちの軽やかな羽音。
 降り注ぐ陽光を頬に感じながら耳を澄ますうち、辺りの微かな物音を伴奏に岬の歌声は徐々にフェイドアウトして行き、やがて風の中に滲んで溶ける。 少し置いて、あたかも終止線を引くかのような細い吐息が聞こえた。
「……その歌、知ってる」
「え?」
 不意に掛けられた声に、岬が驚いたような顔で若林の方を振り返る。そして長い睫を上下させた後、あぁ、とゆったり微笑んだ。自分が歌っていたことに、ようやく気が付いたというような表情だった。
「お前が歌うの、初めて聞いたな」
 若林の言葉に、聞かれちゃったか、と岬は少しばかり照れたように笑う。
「時々気が付くと歌ってるんだよね、これ。なんかの拍子に思い出すみたいでさ」
 多分、風の匂いかな、と岬が再び微笑む。春と夏の間を通り抜けてゆく風の匂い。そう言って眩しげに空を見上げ、彼は静かに深く息を吸った。
「随分昔の曲だよな、確か。小学校2、3年の時だったっけか?」
「うん、3年生の時。……でも、若林君が知ってるなんてちょっと意外かも」
「そうか?」
「あ、別に悪い意味じゃないよ?ただ、ほら、なんか君って流行に流れされないっていうか、そういうのとは別のところにいるような感じだからさ」
 岬が両手で膝を抱えるようにする。どうやら互いに同じようなことを思っているらしいと、若林は心の内でひっそり笑みを浮かべた。
「でもまぁ、当たってるよ。ヒット曲とか殆ど知らないからな、俺。実際、その歌も全部通して聞いたのは今が初めてだし」
「僕も似たようなもんなんだけどね。ウチって引越しばっかりだったろ?だからテレビもなかったし。たまにラジオを聴くくらいだったから、流行の歌とかはあんまり知らなくてさ。でも、ほら、この曲ってサビの部分が凄く印象的だろ?」
 そう言って岬が曲のさわりを軽く口ずさむ。それに重ねるように自らも歌って、若林は頷いた。
「確かにいい曲だよな。歌詩もいいし」
「うん。だから知らない間にそこだけ耳に残ってたんだと思うんだよね、きっと。ある日何となく口ずさんでたら、同じクラスの女の子に 『その歌好きなの?』 って聞かれてさ。『うん。でも、ここしか知らないんだ』 って答えたら、次の日その子が家からこの歌の入ったテープを持って来てくれたんだ」
 時折こうして思いがけず語られる岬の過去の話を聞くのが、若林はわりと好きだった。大きなパズルのピースがひとつひとつ埋まっていくように、あるいは肖像画の細部に少しずつ色が乗せられていくように、岬の存在がよりくっきりと形を成し、鮮やかになっていく。
 視線で話の先を促すと、岬はそれに答えるように口元に小さな笑みを浮かべた。
「でも、お姉ちゃんが大事にしてるのをこっそり持ってきたから、その日のうちに返しておかないと、って言うんだよね。だからその日の放課後、教室のカセットレコーダーを使ってふたりで歌詞を起して、繰り返し歌って一生懸命覚えて。で、それから暫くの間は毎日歌いながら一緒に帰ったんだ」
「テープは?」
「ん?あぁ、無事に返せたって。『気が付かれなかったみたい』 って笑ってた」
 今は遠いその日を慈しむように目を細めて、岬は手元の草を数本引き抜いた。一瞬、湿り気を帯びた土と青く若い草の香が薄く漂う。
「考えてみれば結構哀しい詩なんだよね、これ。でも、あの頃は意味も分からずに歌ってたなぁ。やたら元気よくさ。帰り道、歩きながら歌うだろ?だからどうしても、最後には行進曲風になっちゃうんだよね」
 その時の光景を思い浮かべたのか、岬がくすくすと楽しげな笑い声を立てる。ランドセルを背負い、甘く切ないメロディに合わせて元気に行進する二人の小さな小学生の姿は想像してみれば実に愛らしくもおかしくて、釣られたように若林も笑った。
「昔はね、家で一人で父さんの帰り待ってる時とか、知ってる歌、片っ端から歌ってたんだ。ラジオで聞いた曲とか、学校で習った歌とかね。あの頃は繰り返し繰り返し、この歌ばっかり歌ってた。なんだかね、そうやって歌ってると少しだけ……」
 岬はそこで何かにぶつかりでもしたかように一つ瞬いて不意に言いさし、言葉を捜すように首を傾げて僅かに視線を伏せ、そしてそっと微笑むような声で続けた。
「……少し、楽しい気分になれたから」
 寂しさを忘れられたから。
 淡い笑みの陰に隠れているのは、恐らくはそんな言葉だろうかと若林は思った。頭の下に組んでいた腕を延ばして傍らの岬の手に触れてみれば、その指先はいつものように少しひんやりとしている。
「今は?」
「え?」
「一人の時、どうしてる?」
「あぁ…… そういえば、最近は歌わなくなったな」
 暫し考えた後、岬が思い当たったようにそう呟く。そして柔らかな眼差しでじっと若林を見詰めて少し額を寄せると、触れた指先をそっと握り返して続けた。
「……他に考えることが出来たからね」
 歌う必要がなくなったんだ、とはにかむように告げる岬に若林が言葉を返そうとした刹那、仄かに甘いその囁きを攫って行くかのように、突如強い風が吹き上げて辺りに渡る。思う様木々を鳴らして散っていったそれは、ほんの僅かに潮の香りを含んでいた。
「そこもね、海に近いところだったんだ。大分昔のことだから、今じゃもう、ちょっとした景色の断片とか、緑の色とか、そんなことしか記憶に残ってないんだけど……」
 岬は記憶を辿るように目を眇め、乱れた髪をさらりと掻き上げる。淡い光に縁取られた横顔がひどく綺麗だと若林は思った。
「春から夏に掛けてその街にいる間、ずっとこの歌が流れててね。だからかな、僕もずっとそこにいられるような気がしてたんだけど、でもやっぱりそういうわけには行かなくて、いつもみたいに引っ越すことになって。そのうちに別の歌が流行りだして、この歌もあんまり流れなくなって」
 少し下の方でゆるやかなカーブを描く小道を、白髪の老人が同じように白い毛をした大きな犬を連れ、あるいは犬に連れられるようにしてゆっくり歩いて行くのが、緑の葉陰の合間から見え隠れする。岬は膝に片肘を付いて顎を乗せ、暫し無言のままのどかなその光景を目で追っていたが、やがて遠い視線はそのままに再び口を開いた。
「知らないうちに時間が過ぎて……人も街も流れる歌も、どんどん変わっていくよね。そんな中で、去って行くものはいつか忘れられてしまう。過去になる。思い出の中にしか居場所がなくなっていく」
 だから自分は決して「現在」や「未来」にはなれなくて、いつでも誰かの「過去」のような気がしていたのだと、緩い向かい風を髪に孕ませながら岬はそう言った。
「……僕はいつも、ただ通り過ぎて行くだけだったから」
「岬……」
 思わず名前を呼び、繋いだ指先に力を込めた若林に気が付いたのか、岬がゆるく振り返り、微かに頷いて微笑んでみせる。
「でも、今はね……」
 呟きはふつりとそこで途切れ、続く言葉の代わりに、岬は風に紛れて消える程のほのかな笑い声を漏らした。そしてまるでその存在を確かめるかのように、 目の前の若林の瞳をじっと覗き込む。
「あのさ」
「ん?」
「帰る場所があるって思えるのは、思ってたよりもいいもんだね」
 少し驚いたような表情をした後、あぁ、と嬉しそうに頬を綻ばせて若林が頷く。岬は静かに視線で笑ってみせると、だからかな、と更に言葉を継いだ。
「最近、思うんだ。全部繋がってるんだ、って。過去も、現在も、未来も……全部」
「あぁ」
「もう二度と会えないかもしれないけれど、それでも今、ふとした拍子に誰かがどこかで僕のことを思い出してるかもしれない。風の匂いに、忘れていた歌を思い出すみたいにして。あぁ、懐かしいな、あんな奴いたな、ってさ。今まで過ごした街で出会った沢山の人の、色んな思い出の中にちょっとずつ出演してるんだ。そんな風に、皆と繋がってる。……そういうの、案外悪くないと思わない?」
「そうだな。悪くないな」
 僅かに乱れた岬の前髪を撫でるようにして指先で整えながら若林は頷いた。ひどく優しいその所作に照れているのか、あるいは柔らかく触れてくる指がくすぐったいのか、岬が小さく首を竦める。
「こら、逃げるな」
「だってさ」
 くすくすと笑いながら左右に頭を揺らし、岬が若林の指をかわす。暫くじゃれあうようにして他愛ない追いかけっこを続けた後、やがて岬はふっと声を潜め、とっておきの内緒話を打ち明ける子供のような表情で囁いた。
「……多分さ」
「うん?」
「多分、初恋だったんだよね」
「初恋?」
「テープを聞かせてくれた子」
 思わぬ岬の告白に、へぇ、と僅かに眉を上げ、いかにも興味深々といった表情で若林が相槌を打つ。
「岬太郎の初めての恋、か」
「そ。あの頃は気が付かなかったんだけど、今思うとね。その子といると、いつも凄くどきどきしてたから。この歌が好きだったのはもちろんなんだけど、あんなに一生懸命歌詞を書き取って覚えたりしたのは、きっとそのせいもあったんじゃないかと思うんだ」
 なるほどな、と若林は笑って頷き、そしてふと思い付いたように尋ねた。
「可愛かったか、その子?」
  その問いに、もちろん、と岬はどこか自慢気に大きく頷き、唇に悪戯な笑みを含ませる。そして少し首を傾げると、知ってる?と楽しげに若林の顔を覗き込んだ。
「僕ね、わりと面食いなんだ」
「知ってるさ、当然。俺だって鏡くらい見るからな」
 一つも動じも衒いもせず、しれっとした調子で若林がそう言ってのける。幾度か大きく瞬きをし、返された台詞の意味を数秒反芻した後、岬は心底呆れたように眉を顰めた。
「全く、君って人は……」
 大仰な溜息と共に首を振り、あーぁ、やってられない、と若林の横に寝転がった岬のその口元は、けれども僅かに微笑みを浮かべている。自然と重なった手のひらから通い合うぬくもりはそのままふたりの現在と未来を約束しているかのようで、柔らかく大切に包み込むように、どちらからともなく手を握り合う。
「どうしてるかな、彼女……」
 元気かな。高く澄んだ空を仰いでそう呟いた岬は、初夏の訪れを告げる風に乗せ、再びその歌を口ずさみ始めた。
 


 

END



『♪〜♪♪…』
俺(ヨネスケ/麗)もついさっき聞いた
岬君の口ずさむ歌を歌っていた。
『岬君の初恋は女の子かぁ〜』
アイツが二番目なら俺が三番目だって
事もありえるだろ!!!
なんて…
俺は岬君から聞いた歌を 
低い口笛で吹き始めた。。。

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このたびは麗様のお誕生日&岬君のお誕生日ということで、
当社比で糖度2 倍に しておきましたです。


かおりサマ〜ッ!!!!!!!
久々にかおりさまのSS拝読出来て
メチャメチャ幸せデス〜!!!!!
ありがとう御座いました〜ッヾ(≧▽≦)ノ

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