『兄者は何所へ行ったのです?』


私の問に母者も誰も答えてくれぬ。

『兄者・・・』



自分の寝ている布団の横で
赤子が可愛く声をあげる。

小さな、もみじにも似た手を上げて
私の乳房を捜している。

『兄者はもうすぐ戻るそうな・・・』



その柔らかい、小さな命を抱えあげる。






もう、幾夜、幾月待っただろう。

もう、幾年、兄者の帰りを待ったのだろう。


兄者、赤子はすっかり大きくなって
あなたの面影と共に私に笑いかけてくるぞ。



























『その様なお話は、お受け致しかねます』


麓の里より更に山深く、静かな奥座敷に
その大きな男と初老の婦人が面と向かって
お互いの主張をやんわり告げていた。

婦人がそわそわと胸元に手を宛てる。
この突然の訪問者に、この突然の申し出に
戸惑いを隠せないでいた。



『良い話とは思わんか』

かたや大男の方は別に気にする風も無く
胸元から取り出したタバコをゆっくり吹かす。
一度として紫煙に汚された事の無い
高い天井に舞い上がる煙。
そのユラユラした動きが、2人の身分を象徴して行く。


『オヤジは絶対に気が付くまい、昔妾だったあんたに
 2人の、しかも女の子供がおろうなんて・・・』


もう一度、フッと煙を吐き出した。



女は思う。

『(殺してやりたい)』




そんな冷酷な思いを他所に
その女は冷たく言い放つ。

『お帰り下さい、三杉家のお坊ちゃまともあろう方が
 あんな素性も知れない女を娶ろうなんてご酔狂を・・・』

『素性なら知っておる、昔オヤジの妾だったアンタの娘だ』

老女に向かってフッと煙を吹きかけた。


『十六にして生んだ、どこぞの男のモノとも知れん子供も
 一緒に引き取ろうと言ってるのだ、良い話ではないか』





『(殺してやりたい)』

老女の胸に新たな想いが募る。






そんな婦人の思いを他所に、
よく磨かれた座卓に煙草を押し付けてもみ消した。

『一月後に迎えを寄こす。準備しておけ』






『(殺してやりたいっ)』

俯いた婦人の手に





一粒の涙が落ちた。

































昭和もまだ一桁の時代、
甲信越の奥の山郷で、盛大なる婚礼が行われた。
新郎にて再婚の男、39歳。
新婦にて初婚の女、20歳。

その新妻の眩いばかりの美貌に
出席した者は全て心を奪われたと言う。


その婚礼の不思議な点。


新婦側の人間が誰一人出席しなかったと言う。
けれど新郎による身寄りが無い旧家の娘との説明に
里の人々を初め、新郎の父親さえ何も言わなかったと言う。



それほど、その新婦には妖艶なる美が備わっていた。

































風が、音も無く俺達の間を過ぎる。

『僕、ミサキだよ、貴方は・・・誰?』






『お・・俺は・・・』

ミサキと名乗った姿が
余りにも妖艶で
俺の足も地面を離さない。





『若林・・・源三・・・』



まるでウブなガキにでも戻った気分だった。


『兄者は知ってる?』

『え?』

ミサキと言う少年が手鞠を置いて
ちょこんと縁側に座った。

まるで廊下に立たされた子供みたいに
ただ立ち尽くす俺に向かって微笑みかける。

『兄者はあなたが僕と会ったこと知ってる?』



訳が分らなかった。


『兄者って?君、もしかして・・・』





始めのショックより立ち直って
よくよくその少年を見つめた。
『僕』と名乗った以上、少年なんだろう。

ちょっと長めの茶色い髪。
うだるような熱気の中でも
何事も無いようにサラサラ揺れる。

抜けるように白い陶磁器みたいな肌。
バラ色の頬。
濃い睫に縁取られた悲しげな琥珀色の目。




どことなく三杉に似ている。




『君は三杉の弟さんなの?』


よく、わからない、と言った顔で
2.3度目を瞬いてから頷いた。

『うん・・・』




日差しがジリジリ照りつける。
さっきまで聞こえなかった蝉の音が
高らかに響きだした。


『暑いから、俺も縁側、座ってもいいかな?』





三杉はこの屋敷に三人しか住んでないって言った。
けど この子は? ヤツの弟って・・・・・



『(もしかして幻とか)』

現実か分らないまま、
ミサキと言う子供に手を伸ばした。


その頬に触る。


ミサキが目を閉じた。


その、柔らかい 感触。



『本物だ・・・』














その赤い着物を見下ろす。
どう考えても女物にしか見えない。
かなり年季の入った、
少女が着るような着物。


『君は、誰?』

『何故ここに居るの?』




俺の問に不思議そうな顔をする。


『僕はミサキだよ。
僕は悪い子だからずっとここに居るんだ』



夢の中に居るみたいだった。

『何で悪い子なの?』

ミサキがニコリと笑う。


『だって僕は生まれちゃいけなかったのに
 生まれて来ちゃったんだって。だから
 兄者以外の人と会っちゃダメって言われた』








頭が混乱する。




『いつからココにいるの?』


『兄者が此処に来ていいって言って
 これが7回目の夏になるよ』



純粋無垢。


そんな言葉が頭をよぎる。




『貴方は誰?』

気が付けば俺を見上げて笑顔を向ける。

『俺はお兄さんの友達だよ』

『とも・・だち?』

キョトンとしてたかと思うと急に笑い出す。

『だから、兄者。。。』


この不思議な空間から抜け出したかった。

でも、頭も足も言う事を聞かない。







俺の記憶が何かを告げた。


『そうだ、昨日、垣根の中から俺達を見ただろ?』

昨日、三杉と歩いてる時によぎった赤い影。
あれはこの子なのか?


『うん。トウキョウから戻って来たのに
 全然一緒に居てくれないんだもん』


少年の横顔が寂しげにうつろう。


『でも トモダチ が来てたんだね』



少年が手を大きく前に伸ばす。

『なら、仕方ないや・・・』


なんとなく、なんとなく放っておけなくて
その小さな手をそっと掴む。



『でもお兄さんは君を紹介してくれなかった』


ミサキ少年の目に何かが光る。

『僕と会った事、誰にも言っちゃダメだよ。
 でないと・・・・・』



ミサキ少年の顔が フとよぎる。


『でないと?』





『兄者が怒る』



今までに見せた事の無いような真剣な顔。


『怒らないよ、だって君は弟さんなんだろ?』


しばらく俺を見つめていた。

そっと、そっと首を横に振る。


『僕が悪い子だから、僕と話をしたら
 悪いことがどんどん広がっちゃうんだって』


まだ繋いでいた手を優しく揺する。


『絶対そんな事ないよ・・少なくとも俺には』




そんな気がした。





こんな明るい陽光の下で
まるで西洋の宗教画から抜け出た
天使の様な容貌。

男の子には不似合いな
赤い着物を着ながらも
周りの情景に見事に溶け込んで
もし自分が画家であるならば
必死になってこの情景を収めるだろう。

何故三杉はこの子の存在を隠したんだ?






俺が動じもせずに見つめていたからかな?
少年が気恥ずかしそうに視線を逸らした。


握られてる手がヒクと揺れる。



『僕・・兄者以外の人と話したの・・・初めて』










少年の手がギュッと俺の手を握った。















『暖かい』












真夏の太陽にも似た笑顔で俺を見上げる。



その細い肩が余りにも悲しくて
その握った手が余りにも現実で



そっと胸元に引き寄せた。


寄せた小さな頭から、
サラサラなびく髪の毛から
ほんのり太陽の匂いがした。





『僕を殺しに来たの?』






『えっ・・・?』









その小さな呟きに驚いた時、
バタン!と何かが閉まる音が響いた。


『早く・・・』



岬少年が素早く身を起こすと
俺に向かって囁きかける。



『僕といた事、誰にも言っちゃダメだよ』













『タミさんが来るから早く行って・・・』















名残惜しそうな俺の背中に
タミさんの声が響いた。


一人藪を掻き分けながら思う。



何故俺があの子を殺すんだろう・・・・
何故三杉もあの子もお互いに存在をかくすんだ?



内側の垣根に向かった俺が振り向くと
小さな棟の縁側でその小さな赤い姿が映る。




その姿に胸を締め付けられる想いだった。
『俺・・・』








前の 姿も 見ておくれ 
後の 姿も 見ておくれ
まえの 姿も よおござる 
後の 姿も よおござる
ちィんと こずまに 血がとんで 
あらいやで 洗えど まだおちぬ

馬屋へ ほォせば 馬がみる 
牛屋へ ほォせば 牛がみる
馬屋と 牛屋を さんざみた 
きょうの 市の まんなかで   
あおえの さかずき 手にもって

一ぱい あがれや おしゃさま 
二ィはい あがれや てんとかみさま
おしゃァさま てんとがみさま

















若林の背中に

ミサキの歌声が響く。









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