何事も無かったように
タミさんが俺に昼餉の準備が出来たと告げた。

太陽が真上に照りつけ
開け放たれた広い縁側に座っていても
大地より立ち上る熱の香りが周囲を包む。



『ありがとう』

俺の前に差し出された膳に
箸をつけながら横目でチラと盗み見る。


小柄なその容貌。
若い頃はきっと美しかったに違いない
小作りな顔立ちは厳しさに耐えているように見えた。
お茶を淹れる仕草が、その手の描く曲線が
静かで優美な印象を与えてくる。


『何か?』


タミさんが俺に問いかける。



『(何故あなたも三杉も少年を隠してるんだ?)』

そんな疑問を脇に、聞きたい事を口にした。

『三杉は今日何時頃戻るのですか?』


確か三杉は今日帰ると告げていた筈。

『まだ連絡がありません』



俺の前に香り立つお茶を差し出す。


『戻る時には連絡が来る筈です。
 脇田を呼ばなければ駅から戻れませんから』




『(運転手の人は少年の事を知っているのだろうか?)』



『では、連絡があったら自分にも知らせて下さい』




俺の言葉に頷くと静かに部屋から出て行った。







高らかに、命燃え尽きんばかりに蝉が啼く。
その大音響に包まれながら思う。



(この静寂にあの子も三杉も何を思っているんだ)
















昼食を終えて書斎にお邪魔するも
心の声に従って、再び裏手の棟を訪れた。


足元に絡みつく青々しい草花。



若林の行く手に赤い大輪が
生き生きと咲き誇る。





『トモダチ の人だ』

今朝と変わらず縁側に座って
膝には書籍を抱きながら
若林ににこやかに微笑んだ。


『俺にも名前くらいあるんだけどな』

『若林 源三』



いきなり名前を呼ばれてドキリとした。

『さっき、そう言った』







山奥にひっそりと建つ広大な屋敷。





目の前の赤に
自分の頬が染まる。









『その本は?』

少年が膝から古びた本を抱え上げる。

『デカルト・・って人の自伝』
『デ?デカルト??』

俺を見上げてにっこり笑った。

『兄者がお爺さんの書斎から持って来たんだ』
『デカルトってあの哲学とか物理学者の?』
『そう・・みたい』

この子は退屈しのぎにそんな難しい本で
退屈を紛らわしているのか?

『感想は?』

俺もちょっとはデカルトに造詣が深い。

『アリストテレスは理解できなかったのに
 クラヴィウスは理解出来た人。
 彼は方法序列の中で
 ”どのように考えるかを解くもので、
 人が答えに向かって考えるのではない”
 って書いていた』

目の前がクラクラするのは
きっと暑さのせいじゃ無いだろう。

『兄者は夏休み明けの試験で
 この人の論文ってヤツを書くって』

俺はドサリと縁側に腰を降ろした。

『ああ…俺も書くよ』
『デカルトって人の事?』
『いや、俺はアインシュタインについて書く』

持っていた本を彼に掲げて見せた。

数年前、日本を襲った悲劇を
俺は決して忘れないだろう。
アインシュタインが直接関わって無くても
彼の理論が色々な結果を生んだのは変わらない。

『アインシュタインは16歳の時に光に乗るって決めて
 その人生を光の追求に費やした人』

俺はアインシュタインをそんな目で見たことは無い。

『彼の・・彼の”特殊相対性理論”を知ってるかい?』
『1905年に発表した特殊相対性理論で彼は
 ”速度とはある時間内で移動した距離で
 光の速度は不変であるならば、
 時間の進み方が変化する。なぜなら
 時間とは相対性なものだから』

俺はゴクリと喉を鳴らす。

『その理論から何が生まれた?』
『その4ヵ月後に追加された短い論文の中で
 エネルギーについての公式を発表してる。
 E=mc2すなわち、あらゆる物質は
 質量×光の速度の2乗という莫大なる
 エネルギーを秘めている・・・この理論から
 色々なものが生まれて行った。
 役に立つ物から…大量殺人兵器まで』

少年が事もなげに俺を見上げる。

『キミはアインシュタインが好きなの?』

俺の問いかけに心底戸惑った表情を浮かべる。

『好き?』
『だって君はまだ小さいのに彼について色々知ってる』
『僕は本を読んだだけだよ』
『じゃあ何度も読んだんだ?』

『ううん、一度だけ』


俺の脳が一瞬理解を示さなかった。

『一回読めば全部覚えるよ?
 源三は違うの?』

心臓が早鐘の様に鳴って
少年から目が離せ無くなる。

『お…俺は…』

突然、少年がニコリと笑う。

『じゃあ源三は兄者と一緒だ。
 兄者も一回じゃ全部全て覚えられない。
 同じだから トモダチ なの?』

また
不思議な言葉遊びだ。

『同じだから 友達 じゃ無い』

果たして俺と三杉は友達なんだろうか?
それすらも本当は分らない。

『じゃあ、源三はどうしてココに居るの?』
『君と友達になりたいから』

これは本心だ。
この不思議な少年の事をもっと知りたい。

少年がちょっと顔を伏せて
俺に問いかけた。

『トモダチ って何?』

鳥の鳴き声が時間を止めた。
何故、この少年は相対性理論を知っていて
友達の定義を知らないんだろう。
俺をからかってるのかな?

『本で読んだ。トモダチ って近くにいる他人で
 時間や感情を共有するんだって。源三も
 兄者と色んな物を共有してるの?』
『俺と三杉の場合は・・・まだそんなに深くないけど
 お互いの理念とかに共鳴してると思うな。
 君と三杉だって色々な事を共有してるだろう?』

一瞬彼の目が空をよぎる。

『うん』
『なら、君と三杉も兄弟だけど友達なんだ』
『僕と兄者がトモダチ?』
『そう・・・』

呟いた唇から言葉が消えた。
この少年がここに住んでどれ位なのか?
他の他人に触れ合う事の無い、
隔絶した空間で友達を語るのは難しい。

先ほど披露された彼の記憶力。
俺と三杉の通う大学に居ても遜色ないだろう。

『兄者は他人じゃ無い』

彼の手が俺に伸びてきた。
何故こんな不安げな表情なんだろう?

『兄弟でも親でも、友情を育む事は出来る。
 だって僕らは人間という一固体だから。
 君と三杉は兄弟と言う縁で繋がっているけど
 人間と言う単位で考えたら他人なんだ。
 友情を持つ事は兄弟だって可能なんだよ』

『源三は兄者が好き?』

『は?』
『兄者が好きだからトモダチなの?』

確かに・・・
嫌いな人間を友とは呼べないだろう。

『友達…かは分らないけど、嫌いじゃない』

あやふやな本音だ。

『僕とトモダチになりたいって言った』
『うん』
『じゃあ源三は僕を好きなの?』

ドキリ と胸が鳴る。
どうしてこう、彼のイコールは短絡的なんだろう。

『君の事も嫌いじゃない。だから友達になりた…』

彼がフワリと身体を起こして
小さな手が俺の頬に触れる。





柔らかい羽毛の感触を思い出した。
軽くて、柔らかい。
でもソレはもっと暖かく、
俺は思わず瞼を閉じた。



『好きな人にはこうするんだって』

『・・・』



目の前で茶色の瞳が
一点の曇りも無く俺に向かう。
彼の髪で太陽がはぜて
柔らかい匂いが俺を包んだ。



『コ…コラッ!!!大人をからかうなッ!』


俺、明らかに動揺して・・・



俺の視界がまた、目の前の状況を切り取り出した。
柔らかい陽光の下、目の前に居る美しい虚像。
余りにも深くて、俺の手には届かない。


彼が微笑んで何かを言おうとした瞬間、
遠くでガタン と物音がした。

『タミさんだ』

襖を見やって少年の顔色がこわばる。

『早く行って、でないと…』


暑さのせいか?
不思議な言葉遊びの余韻だろうか?
彼のくれた接吻のせい?

頭で考えるよりも先に手が伸びる。

多分、
生きてきた22年間の内で

俺は今日、
一番不可解な行動に出た。




『好きだよ』




何か言いかけたその唇に
またも羽毛の感触が蘇る。
















狭い庭から木立に駆け込んで
そのまましゃにむに走った。
心臓がまだ収まらない。


『好きな人にはこうするんだって』

彼の言った言葉。
それは只の行動。
感情では無い筈。

じゃあなんで俺は彼に口づけしたんだ?

(彼と友達になりたかったから)
本当に?
(彼と同じラインに立って友達になりたい)
あんなに小さいのに。
(彼に人間として好意を持ってると知って欲しかった)

俺は木立に寝そべって
不可解な行動に理由を並べ立てた。

でも、うまく行かない。

違う。
惹かれてるんだ。
今まで会ったどんな人間とも違うから。

彼が余りにも儚くて
鮮やかな色彩を放っていて
幼いのに大人で
俺の心を掴んでしまった。



『口づけなんて初めてだ』





青空に
俺の言葉が溶けて行く。













半分うわの空で書斎の本に目を落とす。
俺はまだ自分の行動に名前をつけようと
必死になって色々な情景を巻き戻していた。

『若林様』

急に呼ばれてあわてて思考をタミさんに戻す。

『三杉から連絡がありましたか?』

老女はお茶を差し出しながら
ゆっくりうなづいた。

『夕餉には間に合うと申しておりましたから
 夕刻辺りに戻ると思います』


そっか・・・
心のどこかで残念がる自分に気が付く。
三杉が隠しているんだから、もう
岬少年には会えなくなる。
つい昨日までは退屈を覚悟していたのに
今は残念がるなんて滑稽だ。

『夕刻か、心しておくよ』



広い縁側に座って
しばらく自分と向き合った。
会いたい。
けど、あんな事をして
どんな顔して会いに行くんだ?
でも、もう一生会えないかも知れない。
三杉に頼んでみたら?
いや、他人の家の事情に踏み込んでは失礼だ。
いや、俺はもう少し踏み込んでる。
しかも、誰からも歓迎されない方法で。



結局抗う声に負けて
俺の足はまた裏山に向かった。

俺の足音を聞きつけて
岬少年がコチラを向いて微笑む。
朝出合った時とは違って
少年からトゲトゲしさが消えている。
俺に寄ってきて袖を引いた。

『何故だ?』

ずっと心にある疑問を投げる。
もしかすると酷な事かも知れない。
でもそれよりも
もう会えないかも知れないと言う事実に
俺は答えが欲しいと思った。

『何で君はここに居るんだ?』

縁側で隣に座っている少年に問う。

『何故君は隔離されて居るの?』



『僕が悪い子だからだよ』
『前にも聞いたよ』
『本当は生まれてきちゃいけなかったのに
 僕は生まれてきちゃったんだって』
『誰が・・・誰がそんな事を言うんだ?』

馬鹿だな、俺。
そんなの一人しかいないのに。

『兄者だよ』
『なんで生まれてきちゃいけなかったんだ?』
『知らない。でも悪い子だから
 母者も僕が2歳の時に
 僕を置いて行っちゃったんだ』
『どこへ行ったの?』
『兄者の所へ』

意味がわからない。

『君のお父さんは何所?』
『…どこか、遠い所に行っちゃった』
『遠い所?』
『そう、その男の人は僕を見て凄く怒ったから』
『なんで怒ったの?』

わからないの?とでも言いたげに首を傾げる。

『僕が生まれてたからだよ』
『つまり君は・・その・・拒絶されてた?』
『拒絶?分らないけど凄く怒って…』

少年が急に苦しそうに目を閉じて
喉元に手をやった。

『ご・・ごめん、俺そんなつもりじゃ』
『別にいいよ』


真実は隠されて
この少年が隔離されてるのと同じ
隠れた所に真実が存在する。
だけど、もう2度と会えないのなら
こんな不毛な話で彼を戸惑わせてはいけない。

『今日、三杉が帰ってくるって』

少年の顔がパッと輝いた。

『ホントに?』
『うん、さっきタミさんが言ってた』
『良かった』

彼の笑顔に内心ホッとした。

『君達は本当に仲がいいんだね』

しかもこの少年には三杉しか存在しないから
仲が良くても当たり前かも知れない。


『源三・・・』
『ん?』

本当に2度と会えないのなら
この情景をしっかり胸に焼き付けよう。

『兄者には僕と会ったって言ったら駄目だよ』
『わかった』

本当は 何故 と問いたい。

『だって源三は僕の事好きって言った』
『うん』

恥ずかしくなって頭を掻いた。
言葉が詰まって何も言えない。

『僕の事を拒絶して殺したりしないよね。
 源三を見た時、あの男がまた僕を殺しに来たと思った。
 けど、源三は トモダチ なんだよね』

少年の剣幕に押されて言葉を失う。

『殺しに来たって・・・誰が来たの?』
『あの男』
『あの男って誰?』

岬少年がギュッと目をつむる。
その姿を見て、俺は自分の行動にまた驚いた。


そっとその身を抱いて
優しく頭を撫でる。


『大丈夫、もう誰も君を殺しに来ないよ』

誰がこんな小さな子供を殺すんだろう。
岬少年の見る夢の中で?


確かに。
この少年の言動・行動は
余りに純真無垢で
世間の中で生きて行くのは
ちょっと厳しいのかも知れない。
だからってこんな所に?


『俺は友達なんだ。もしその男が来たら
 君の事を守ってあげるから』

嘘だ。
今はこんなに愛おしくても
明日になればもう会えないかも知れないのに。
でも
今の俺は伝えたかった。

どう言っていいか分からないけれど
心の中が全部、彼に傾いている。


『君は三杉の事が好きかい?』

さっきの行為を思い出してちょっと顔が赤らむ。
三杉にも純粋にあんな行為をしてるのかな?

『うん 凄く好き だよ』
『きっと三杉も君の事を凄く好きと思う』


こんなに頼りなげで儚い夢。
誰だって守りたいと思うだろう。







暫く立って、俺は暇を告げた。

本当は全てに心残りだけど
いつまでも夢を見ている訳には行かない。
それでなくても既に
彼の日常をかき乱してしまっているのに。

別れ際、俺は少年の肩に手を置いて
その顔をジッと見つめた。
少しでも心に残るように、
少しでもこの出会いを味わえるように。

『元気で。俺が友達って事、覚えといてナ』

岬少年がまた、あの不思議そうな顔で
俺の事を見つめていた。




鴉が数羽、けたたましく啼き、
山々がオレンジ色に染まり出した。

















『暇にさせて悪かったな』

いつの間にか、俺は転寝していたらしく
三杉に肩を揺り起こされた。

『幾ら夏とは言え、風邪引くぞ』
『三杉・・・』

夕闇の中だからかな、
三杉の顔がやけに白く映る。

『夕餉の支度が出来てるよ』







さっき見たのは幻だったのかな?
夕餉の膳を囲んで他愛なく話す三杉は
いつもと変わらない様に見えた。


暫く話した後、『疲れた』と言って
三杉が早々に自室に引いて行く。
俺は少しの後ろめたさと共に
その背中を見送った。











真夜中。
さっきの転寝のせいか、
俺はまたちっとも眠れずに
真っ暗い闇の中で
岬少年の事を考えていた。

隣からかすかな物音が響く。

(まただ)


三杉の部屋の襖が静かに開いて戻り、
密やかな足音が遠ざかって行く。
耳を澄まして俺は起きだし、
そっと部屋の襖を開けた。

月明かりがぼんやり差し込む廊下の奥、
三杉の体が角を曲がって・・・
暫くして少し大きなガチリと重い音がした。
前は何の音か、といぶかったけど今は違う。

三杉は岬少年に会いに行くんだ。

そっと襖を閉めて布団に潜るが
俺に眠気は一向に襲って来ない。
それどころか変な好奇心がムクムクと頭をもたげる。

(何を話してるんだろう)
(三杉と居る時の少年が見たい)

あの、眩しいくらいの笑顔で
やはり三杉を見上げるんだろうか・・・








そうっと垣根を越えた。
夏の啼き虫がオーケストラを奏でる。
足元に踏みしめる草が
静かに静かに音を立てた。

垣根から斜面をそっと降りていく。
離れの屋根がグンと迫った。


少年といつも会う縁側が見える。l
俺の頭の中にその情景は飛び込んで来た。









月明かりの淡い黄色の中に、
その白い肌が浮かぶ。
三杉がその小さな肢体を支配して
少年の声が微かに聞こえてくる。

(ウソだ・・・)

目の前にある情景を拒む。

小さな身体に三杉が口を寄せると
少年の手がゆっくり伸ばされて
まるで白鳥のように・・・
優雅に宙を舞った。



足元が
まるで砂丘にでもたってるかの如くグラつく。
虫の音が大きく頭に反響して
立っていられずに近くの木に凭れ掛る。

(三杉・・そんなの・・ウソだ・・)



少年の身が悶えて
張り詰めたかと思うと
急に力が抜けていく。

岬少年がゆっくり顔をあげた。




(ウソだ!!!)




少しづつ後ずさる俺に
岬少年が





笑いかけた気がした。
































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