その日、坪田が運転する車は
過ぎ行く町並みを残しつつ、
一路北上し、日本海もほど近い
三杉の実家に訪れた。


山道を抜け、山々に囲まれた
まだ、村と呼ぶにふさわしい簡素な土地。

エアコンを切って、俺は窓を開けた。


ザワザワ鳴る木々、
青く澄み切った空、
白く、高く登る雲。
青々とした空気が、俺に微笑み掛けた。


里村を過ぎて暫く車を走らせる。

『おかしいな・・』

三杉より送られてきた手紙には
里村を抜けて一本道を暫く。。と記されている。

『(もう、10分は走ってるぞ)』



俺は既に三杉家の敷地内に居る事を知らなかった。








大きなカーブを抜けて初めて
建物の一辺が見え始める。


『すごいお屋敷ですね、お坊ちゃま』

坪田も遂に感嘆のため息をこぼした。







俺の家とは正反対の、純日本風な造り。
広い玄関には両側に堂々とした柱が立ち、
玄関より両側に広がる、広い縁側の奥に、
ガラス戸、障子が見て取れる。
風土にさらされた具合が、この家の歴史を語り、
車の到着に驚いたカラスが一斉に飛び立った。



車を止めて坪田がドアを開けるのと
三杉が家より出てくるのが同時となった。


『ようこそ、こんな田舎に』
『凄い立派なお屋敷だな、三杉』

俺の素直な感想は、握手と共に
三杉の笑顔に吸い込まれていく。

『天下の若林財閥のお屋敷に比べれば、
 ただの古いボロ屋敷だよ』


玄関先に坪田が荷物を置いて俺の指示を待った。


『じゃあ、1週間後に』
『かしこまりました。ごゆっくり・・・』


帽子を取ってペコリと頭を下げてから
坪田の車がどんどん小さくなって行く。
そのマフラーの音がやがて消え入ると、
風と、鳥の羽ばたきしか聞こえない。


『さあ、入ってくれよ』


15尺はあろうかと言う広い玄関に
果てしなく続く左右の廊下、
真ん中を貫く広い廊下が、丹念に磨かれて
どの板も艶やかに光沢を放つ。

俺は黙って三杉の後をついて右の廊下を進んで行った。

『何の取り得も無い、古い平屋だよ』


そういいつつ、一つの部屋から襖を通じて
奥へ、奥へと分け入り、遂に玄関とは反対側、
沈み行く夕日に照らされた20畳くらいの空間に出る。

ガラス戸も、障子も今は全て仕舞い込まれ、
そこは外の雄大な景色と一体化した部屋だった。

『結構、気持ちいいだろう?』



『ああ・・・』




初めて見る、雄大な空だった。
山々がオレンジの帯に染まって行く。
俺は畳を抜けて広い縁側に、
その青々しい空気を胸いっぱい吸い込んだ。
東京の喧騒など一切無い、静かな空間。

『気持ちいい・・・』


『この部屋を自由に使ってくれ、僕はこの隣の部屋に居る』

指で方向を示しながら俺に微笑む。

『この土地で一番のご馳走なんだ』


そう言って三杉も俺の隣で大きく息を吸った。








忘れてた、俺。
こんな、感触。

誰かが隣に居てくつろげるなんて
結構、初めての感覚かも知れない。






『夕げの支度も出来ておりますが・・・』

襖が音も無く開いて、小柄な婆さんが鎮座してる。


『タミさん、友人の若林だよ』
お茶を載せた盆を脇に置いてから深々と頭を下げた。


『タミで御座います。この度はようこそおいで下さいました』

若林も思わず苦笑する。

『こちらこそ、お世話になります』








こんな田舎で?と思うような豪勢な食事が並んだ。
きっとこの辺りで取れたのであろう、
新鮮な野菜の数々、形良く盛り付けられている魚、
牛や豚ではない、桜色の肉。

『この家に居るのは3人、僕とタミと運転手の萩原だ』
『少ないな・・・』
『普段の僕は東京に居るし、僕には身よりも無い』
『・・・』

一瞬押し黙った俺を気にもせず
三杉が何時に無く上機嫌で続ける。

『まあ、若林もココの新鮮な空気を吸って元気になれ』



まるで兄の様な慈悲深い目。

三杉は知っていたのだろうか?
俺が家の重圧に、東京の喧騒に、
周囲の期待の声に、自分自身に課せた
重く、暗い、終わりなき困惑の道の事を。


2人だけの夕げの席で
俺は今まで知り得なかった三杉の生い立ちを知った。
17歳で母を亡くし、20歳で父親までも。
その後心臓の疾患と戦いながら勉強し
今年に入ってようやく、大學生活を手に入れた事。


この人里離れた空間で父と、母と、
自分ひとりで過ごす時間。

『(俺には自信が無い)』


問いかけるのも答えるのも
自分自身という同じ境遇でありながら
俺にはもっと身近に行き交う人が居た。

どれだけの時間が、
どれだけの沈黙が
三杉と言う男をここまで冷静にならせ、
強靭な性格を貫かせて行ったのか。

新たに広がった疑問より呼び起こさせる恐怖は
同情と言うよりも親愛に近かった。



『俺の家は・・・』
言葉は少ないけれど俺もポツリポツリ話しだす。
状況は違っても、捉える方向は同じ道を示している。
そんな甘えから、三杉に自分を打ち明けてみる。

『(こんな感じ、初めてだ)』









あの婆さんが敷いてくれた布団の中、
今や障子もガラス戸も締め切った蚊帳の下で
長々寝付けないでいた。

余りにも静か過ぎて、
自分をさらけ出したと言う事実が
俺から眠りを奪って行く。

『(こんなに人を信用していいのか?)』




何度か寝返りを打ち、
それでも必死に瞼を閉じる。



かすかに、かすかに聞こえる物音。
シンと静まり返った時間に襖の開く音が響く。


『(三杉?)』


厠か?


ヒタヒタと冷たい足音がずっと
ずっと奥に響いて  消えた。




















三杉の案内につられて、家の周りを歩く。

『ホラ、あれが里村だ』


三杉の指差す方角に色とりどりのくすんだ屋根。
かなり小高い丘に登ると三杉家の全貌が見渡せた。

『凄いな』



玄関から正方形に大きな母屋。
俺の居る部屋が西の端。
北側に伸びる、細い屋根に付いて
幾つかの大きな屋根が見える。

『母屋から更に奥もあるんだ』

三杉が寂しそうに笑う。



『タミと萩原にそれぞれの棟、あとは茶室やら。
 でも、殆ど使ってはいないんだ』


この山々全てが三杉の土地なんだ。
改めてこの男の顔を見やる。

『土地があるだけだよ』


なんとも言えない感情が胸に落ちる。
俺とさほど年も変わらないのに
この男の手の中に有るものは広く
虚ろで、自分の背負った全てを受け止めて
そして俺の前に立っている。
なんか、凄く三杉が好きになっていった。

『(初めての友達。。。か)』

友情より親愛、親愛より家族にも似た感情。
自分の家族にすら抱いたことの無い、信頼。


眩しい日差しを受けて俺が呟く。

『招いてくれて感謝するよ』


三杉もニヤリと笑う。

『だって大學で若林は苦しそうだったから』

『(え?)』



『与えられて背負うものは受け入れなきゃならない。
 でも自分の器を越えた事は誰にも出来ないんだ。
 なのに若林はいつも辛そうな顔をしてて・・・
 美味しい空気を吸わせてやろうと思ったんだ』



『(感謝)』

俺の胸の内を察したかの様に
三杉がまた前を歩き出す。


『(凄い男だぜ、三杉)』


そのやり方といい、愛情に溢れながらも
決して奢る事の態度。
人を思うって事の原点を、俺はこの男から学んだ。








『この垣根はなんだ?』

丘より下ってる途中で、新たに生い茂る垣根に出会った。

『ああ、それは昔母が離れを使っていた時の名残だよ』


三杉の母親は母屋より離れを好んでいた為、
里の者を寄せ付けないように垣根を作ったと言う。

『いくら私有地と言っても広い山だから
 ある程度は開放しているんだ。その垣根の向こうは
 立ち入り禁止って事』


『そうか・・・』


垣根の向こう、生い茂る木々の間に
何か赤いものがよぎる。

『?』


それは一瞬にして俺の前を過ぎ、
もう、何の気配もしなかった。


『(目の錯覚かな?)』

『若林、今日は僕の蔵書を見せるよ』

『ああ・・・』







『幼少より、僕は丈夫な方では無かった』

三杉の書斎で膨大な本に囲まれながら
ヤツの呟きに耳を傾ける。

『だからずっと本ばかり読んで過ごした』



確かに、凄いコレクションだった。
東京にいても尚、コレだけの本のコレクション
にはお目にかかった事が無い。

『僕の爺さんが好きでね・・・
 只の田舎の土地持ちでは終わりたくなかったようだ』

俺も圧倒されながら、その古い本を紐解いて行く。


『父親はどうしようもない放蕩息子で
 家にも殆どいなかったから
 僕が10歳の頃まで健在だった祖父に
 勉学の基礎を教えてもらったんだ』

『ああ・・だから・・・』

『だから?』

『だから三杉は爺さんっぽいんだ』


妙に納得した俺を尻目に
三杉が小さな本を投げてよこした。

『放っておけっ!』






本当にまるで兄弟みたいに
俺達の周りで新しい風が吹く。

夕方まで一緒にアレコレ話合って
2度目の夕げも近くなった頃。



ジリリリリリン





ジリリリリリン






かすかに、かすかに響く音。


それが電話の音だと
気が付くのに数分掛かった。





『よろしいですか?』

タミさんが襖を開ける。

『どうした、タミ?』





何時に無く苦しげな表情で
タミさんが呟いた。


『東京の、春子様よりお電話です』


三杉のちょっとガッカリした顔。

『若林、君はこのままに・・・失礼』







それから10分程して
タミさんが『夕げのお支度が整いました』
そう告げて来た。





『父親には一人の妹がいるんだ』

今日も今日とてかなりなご馳走が並び、
箸でつつきながら三杉が言葉を落とす。


『つまりは俺の叔母なんだけど、小屋敷って家を
 若林は知っているかな?昔は名の知れた華族、
 今じゃあ落ちぶれ だけどね。そこに嫁いだ』

『ああ、何度か会ったよ』


日本にも少なからず身分の階級があった頃。
その頃の名残を捨てきれない人々が居る。
小屋敷家もそんな落ち目の華族であった。

『なにやら問題が起きたらしい』

大袈裟に上を向いて茶碗を持つ手を下げる。

『若林すまない。僕は明日、東京に行ってくるよ』
『いや、俺もお暇するよ、たっぷり休養させてもらった』

主も居ないのにお邪魔するわけにも行くまい。。。

『いや、若林はココでゆっくりしていてくれ』
三杉が俺にニコリと微笑む。

『明後日には戻るから、一日くらい、のんびりしろよ』





じゃあ、お言葉に甘えて・・・
そう言った俺に三杉はやさしく微笑んだ。


『(さて、明日は何をするかな?)』

またも布団に潜りこんでアレコレ考える。
幸い、書斎に入る許可はもらっていた。

『(散歩でもして読書するか)』



またも重苦しい沈黙に押されて
寝苦しい俺に音が届く。

『(まただ、三杉、どこに行くんだろう)』

昨夜も三杉が戻った気配は無かった。

ヒタヒタと冷たい足音が遠く、
かすかに消える寸前、重く何かの閉じる音。


『(明日は俺、一人なんだ・・・)』











目が覚めて朝食を取る。
タミさんが何やかやと世話を焼いてくれながら
『三杉様はもうお発ちになりました』
その一言にガッカリする。

『ご馳走様』


無粋とは分っていたけれど、
夜の三杉の足音が気になって、
屋敷の北側の廊下を歩く。

別になんの変哲も無い。

『(何か、閉まる音がしたんだ・・)』

でも、上から見下ろした時、
確かに茶室やらなにやらに続く
渡り廊下が見えたハズ・・・

北側の一番端、奥まった部屋に辿り着く。


『(ここから行くのかな?)』

その襖に手をかけた時、
タミさんの声が響いた。

『若林様、ソコは私の部屋で御座いますよ』





物凄いバツが悪くなって外に出た。


『(なんだか不思議だな)』

外の境界線とは違う、
内側に張り巡らされた垣根に沿って歩く。

その時、かすかに歌声が聞こえた。








まるでこの澄み切った空に
更に溶け込もうと言わんがばかりの歌声。


『(里から?山から?)』

好奇心に駆られて若林の足も歌声に近づく。

その歌声は遠く、甘く、まるでかくれんぼみたいに
若林の行く先を左右して行く。

『(垣根の内側だ。。でも、なんで???)』




確かに、その歌声は垣根の内側より聞こえて来た。


『(里の子供でも紛れ込んだのか?)』



限りない興味と、三杉家への義務感から
垣根に沿って歩き出した。

『(確かにこの奥だ・・・)』



母屋の裏側に、やっと人が通れるくらいの穴を見つける。
道も無い森の中を、明るい日差しに向かって歩く。

歌声が近くなって来た。









わしの大事な手毬さァまは

紙に包んで 文庫に入れて

お錠でおろして お鍵で開ァけて

開けたところは イロハと書ァいた

イロハ誰が書いた お菊が書ァいた

お菊よう書く お袖の下から

お渡し申すが合点か 合点か・・・



『(手鞠唄?)』


古びた建物が見える。
かなり近くなって来たと思ったら
その歌声が急に止んだ。


『誰?』



俺の体が急に開けた場所に出た。
明るく、燦々と降り注ぐ陽の光。














老朽化の激しく見てとれる建物の前に
赤い着物の子供が立っていた。
両の手に白地に紫の芙蓉の手鞠が光る。

その着物の赤が、手鞠の白が、
煌く茶色の髪が、周りの緑が

まるで切り取った写真の様に
俺の視界をを釘付けにした。

しとどに、あどけなく問いかける瞳、
虫も、風も、鳥も、空気ですら
その子供の前にひれ伏して
指示を仰ぐかの如く息を潜める。





『だあれ?』

動かなければ精巧な人形かと見間違えるほど
美しいその姿から言葉が落ちた。


『(まるで、奇跡の様だ・・・)』



やっと風が俺の頬を撫でる。

『お・俺・・・・・』

まだ、頭が完全に理解していない。


『き。。君は?』






『僕? 
僕、岬だよ・・・』











優しく首をかしげながら
その子供が俺に笑いかけた。






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